大学4年生になると就職活動が始まった。
その頃の人気業種はダントツで金融。
銀行、保険、証券・・・
経済学部の同級生たちももちろんだが、理系の連中までもこぞって銀行、保険を希望していた。
私もご多分にもれず、金融志望で就職活動。
最後は、某都市銀行と大和証券の2社に絞られた。
特に証券希望ではなかったが、縁あって大和証券に決まった。
1986年4月。大和証券に入社。
最初の勤務地は、東京赤坂。第2営業部。
新入社員のための、机上の勉強と営業の実地研修の部署だ。
東久留米にある寮からの通勤だった。
とにかく朝が早かったのと、通勤電車が異常に混んでいたことを覚えている。
営業エリアは、飯田橋。
東京なんてまったく土地勘がなかった。
リストと地図を持って毎日毎日飛び込み営業。
話を聞いてくれるどころか、名刺を受取ってももらえない。
そんなある日のこと。
飛び込んだところは、小さな商店。
店主が客と話をしていたので、終わるのを入口で待っていた。
店主はそんな私に気付いていたはずだが、ずっと無視。
10分ぐらい経っただろうか、やっと客が帰った。
私が話し始めると、けんもホロロ。
相手にしてくれない。
私の帰り際の態度が気に入らなかったのか、店主が激怒。
追いかけてきて胸ぐらつかむなり、「どこの証券会社だ!名刺よこせ!」
私は、あわてて逃げかえってきた。
「なんでこんな目に会わなきゃいけないんだ」涙がぽろぽろ止まらなかった。
=== 今思い出してみると、帰りぎわに、「10分も待たせておいて、全く話も聞いてくれないんなら、もっと早く言ってくれよ」
みたいな捨てゼリフを言ったんじゃないかなと思います。
まだまだ世間知らず、苦労知らずの青二才でした。===
無我夢中の8か月。
東京での研修も無事終わり最初の配属地。地元の長野支店に決まった。
大和証券長野支店。
営業マン10名ほどの小さな支店だった。
新人は私と高校の同級生F氏のふたり。
先輩はみな他県出身だが、のんびりアットホームな雰囲気だった。
営業エリアはかなり広く、南は佐久から北は上越まで。
車じゃないとまわれない。
高校の卒業生名簿や法人リストを頼りに新規開拓に励んだ。
だが、押しが弱い性格からか、成績はそれほど上がらなかった。
バブル真っただ中。
株は上がり続けるもの。
下がるなんて考えられなかった。
1987年10月のブラックマンデー。
先輩たちは大変だったが、顧客が少なかった私にはそれほど影響がなかった。
1988年夏。
転勤の時期。
支店長室に呼ばれた。
「お前は、ナンバ支店に転勤だ」
「はい、わかりました」
支店長室を出てから先輩に聞く。
「ナンバ支店って言われました。ナンバ支店ってどこにあるんですか」
大阪出身の先輩が教えてくれた。
「そりゃ大阪やで」
「大阪なんですか。あちゃー」
大阪。
縁もゆかりもない。
「なんか怖い街」というイメージしかなかった。
たった一年半の長野支店。
あまり成績が上がらず、全国の同期の中では最も早い転勤。
しかもよりによって大阪だ。
1988年夏。大和証券なんば支店。
さすがは大阪ど真ん中。営業マンが20名を超える大きな支店だ。
転勤初日の夜は、同期のふたりに連れられスナックに。
そこでのママと彼らの会話が傑作だった。
普通の世間話なのだが、まるで漫才を見ているようだ。
ボケとツッコミ。その絶妙なかけあいに腹をかかえて笑ってしまった。
とにかく早口の大阪弁。うだるような蒸し暑さ。
おっとりした田舎者が、はたしてこの先やって行けるだろうか。
ちょっと不安な初日だった。
翌日からは、引き継ぎ顧客へのあいさつまわりが始まった。
ある日のこと。
行き先は、天下茶屋近くの商店街。
地下鉄「動物園前駅」を降りて歩いていった。
歩道に座り込んだおっちゃんとおばちゃんが、昼間から酒飲んで盛り上がっている。
なんともいえぬ異様な雰囲気が漂っていた。
近くまで来てみると、おっちゃんは上半身はだか。
しかもその背中には鮮やかな模様が・・・
目を合わせないように、目を合わせないように。
体を堅くし、背中をまるめ、急いで横をすり抜ける。
「これが大阪か・・・」
毎朝会社に入るのが7時過ぎ。朝が弱い私には、本当にきつかった。
そして、毎日毎日ノルマ、ノルマで追い込まれた。
ノルマが達成できないと、終電がなくなるまでやらされることもしょっちゅうだった。
心機一転。心も体もへとへとだったが、今度は地道にがんばった。
その甲斐あってか、順調に顧客も増え、成績もそこそこよくなった。
1989年1月。
昭和から平成に。まさにバブル絶頂期。
この年の年末まで株価は一本調子で上がって行った。
当時の証券会社の主な収益源は、手数料収入。
営業マンの成績は、いかに顧客から手数料を稼ぐかで決まる。
そのため、株を買わせるとともに持ち株を売らせることも重要だ。
少しの利益で売らせ、また別の銘柄を買わせる。
要は資金をいかに回転させるかだ。
証券会社の利益と顧客の利益は相反する関係なのだ。
こんなやり方は絶対おかしいと思っていた。
「お客さんが儲かるにはどうしたらいいだろうか」といつも考えていた。
そのため私の顧客は比較的儲かっていたが、私の成績はなかなか上がらなかった。
バブル絶頂期。
どんな銘柄も異常な値上がりを続けていた。
ヘタに売り買いするより、ずっと持ち続けたひとが一番もうかったのではないだろうか。
1989年の年末。
大納会。
日経平均終値3万8915円。
「来年は5万円。そして数年後には10万円」
だれもが信じて疑わなかった。
1990年が明けた。
意気揚々の初出社。みんな目を輝かせていた。
しかし、なぜか初日の株価は下落から始まった。
その後も毎日ずるずると下がり続ける。
なぜこんなに下がるのか。原因はだれにもわからなかった。
1990年4月。日経平均は2万8千円。
なんと4ヶ月で1万円以上も下がってしまったのだ。
こうなるとすべての顧客が損失をこうむり、もうボロボロだった。
買う余力がある顧客なんてひとりもいない。
それでもノルマが減ることはなかった。
「この損どうしてくれるんだ!」クレームの電話がかかってくる。
お客なんて勝手なもんだ。
儲かっているうちはいいが、損をし出すと営業マンのせいにする。
その筋のひとに脅され、監禁されそうになったこともあった。
当時一番の顧客だったある会社の社長。信用取引で損が数億円に膨らんだ。
そのときから電話をしても一切出てくれなくなった。
「自分の判断でやってるんだからこっちには責任がない」と開きなおることもできず、すぐさま自宅に謝りに行った。
ところがいるはずなのに出てきてくれない。
次の日の夜。また訪問したが、今度も居留守。
毎晩続けて一週間。やっと出てきてくれたと思ったら、塩をまかれた。
それでもめげずに通い続ける。
二週間でようやく口をきいてもらえるようになった。
一か月で家の中に上がらせてもらえるまでになった。
「損したのは、あんたのせいじゃないとわかってるんやけどね」
やっとまともに話ができた。
その日は、社長の生い立ちや商売のことなど、初めて聞く話も多かった。
実は本業ではかなり利益が出ていたらしい。
バブル崩壊ですべてを失うことにならなかったのが救いだった。
支店には、同年代の営業マンが多かった。
はじめに三つ年上の先輩が結婚した。
するとどうだろう。
まるで伝染病のように次から次へと毎月1人ずつ。
結婚ラッシュが1年も続いた。
1990年。27歳の夏。
とうとう私も結婚することに。
結婚を機に、自分と家族の将来を真剣に考えるようになった。
こんな仕事を続けてていいのだろうか。
自分が本当にしたいことはなんだろう。
お客さまに喜んでもらえる仕事とはなんだろう。
毎日悩み続けた。
「よし、税理士になろう。学生の頃一度夢見た税理士になろう。がんばったらがんばっただけ、ありがとうと喜んでもらえる仕事をしよう」
退職を決意し辞表を出した。
1991年6月。28歳のことだった。
思えばみなバブルに酔って我を失い、金に踊らされた時代だった。
占いで、一度に何十億円もの株を売買する、料亭の女将がいた。
その後彼女は、預金証書の偽造が発覚、信用金庫をひとつ潰してしまった。
最年少で支店長になり、「時代の風雲児」と週刊誌にもてはやされた証券マンがいた。
その後彼は、顧客の株券数十億円を横領、逮捕されてしまった。
ノルマに耐えきれず、顧客に無断で売買してしまう証券マンがいた。
その後彼は、顧客に訴えられ、法廷の証言台に立った。
=== 私の証券マン時代はバブルの真っただ中に始まり、バブル崩壊直後まで本当に厳しいものでした。
それでも周りの雑音に惑わされることなく、信念をつらぬくことができたと思います。
この貴重な経験があったからこそ、今の自分があるのだと確信しています。===