寺島義雄事務所TEL
ブログ記事

○大和証券の営業マン時代@ 『厳しさ学んだ社会人一年生』
(1986年4月〜12月赤坂第二営業部で新人研修)

大学4年生になると就職活動が始まった。
その頃の人気業種はダントツで金融。
銀行、保険、証券・・・
経済学部の同級生たちももちろんだが、理系の連中までもこぞって銀行、保険を希望していた。

私もご多分にもれず、金融志望で就職活動。
最後は、某都市銀行と大和証券の2社に絞られた。
特に証券希望ではなかったが、縁あって大和証券に決まった。

1986年4月。大和証券に入社。
最初の勤務地は、東京赤坂。第2営業部。
新入社員のための、机上の勉強と営業の実地研修の部署だ。
東久留米にある寮からの通勤だった。
とにかく朝が早かったのと、通勤電車が異常に混んでいたことを覚えている。

営業エリアは、飯田橋。
東京なんてまったく土地勘がなかった。
リストと地図を持って毎日毎日飛び込み営業。
話を聞いてくれるどころか、名刺を受取ってももらえない。

そんなある日のこと。
飛び込んだところは、小さな商店。
店主が客と話をしていたので、終わるのを入口で待っていた。
店主はそんな私に気付いていたはずだが、ずっと無視。
10分ぐらい経っただろうか、やっと客が帰った。

私が話し始めると、けんもホロロ。 相手にしてくれない。
私の帰り際の態度が気に入らなかったのか、店主が激怒。
追いかけてきて胸ぐらつかむなり、「どこの証券会社だ!名刺よこせ!」
私は、あわてて逃げかえってきた。

「なんでこんな目に会わなきゃいけないんだ」涙がぽろぽろ止まらなかった。

=== 今思い出してみると、帰りぎわに、「10分も待たせておいて、全く話も聞いてくれないんなら、もっと早く言ってくれよ」
みたいな捨てゼリフを言ったんじゃないかなと思います。
まだまだ世間知らず、苦労知らずの青二才でした。===

無我夢中の8か月。
東京での研修も無事終わり最初の配属地。地元の長野支店に決まった。

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○大和証券の営業マン時代A 『バブルに乗りそこねた一年半』
(1987年〜88年8月 地元長野支店に一年半勤務)

大和証券長野支店。
営業マン10名ほどの小さな支店だった。
新人は私と高校の同級生F氏のふたり。
先輩はみな他県出身だが、のんびりアットホームな雰囲気だった。

営業エリアはかなり広く、南は佐久から北は上越まで。
車じゃないとまわれない。
高校の卒業生名簿や法人リストを頼りに新規開拓に励んだ。
だが、押しが弱い性格からか、成績はそれほど上がらなかった。

バブル真っただ中。
株は上がり続けるもの。
下がるなんて考えられなかった。

1987年10月のブラックマンデー。
先輩たちは大変だったが、顧客が少なかった私にはそれほど影響がなかった。

1988年夏。
転勤の時期。

支店長室に呼ばれた。
「お前は、ナンバ支店に転勤だ」
「はい、わかりました」

支店長室を出てから先輩に聞く。
「ナンバ支店って言われました。ナンバ支店ってどこにあるんですか」
大阪出身の先輩が教えてくれた。
「そりゃ大阪やで」
「大阪なんですか。あちゃー」

大阪。
縁もゆかりもない。
「なんか怖い街」というイメージしかなかった。

たった一年半の長野支店。
あまり成績が上がらず、全国の同期の中では最も早い転勤。
しかもよりによって大阪だ。

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○大和証券の営業マン時代B 『これが大阪か・・・』
(1988年8月〜 初めての大阪 なんば支店に勤務)



1988年夏。大和証券なんば支店。
さすがは大阪ど真ん中。営業マンが20名を超える大きな支店だ。

転勤初日の夜は、同期のふたりに連れられスナックに。
そこでのママと彼らの会話が傑作だった。
普通の世間話なのだが、まるで漫才を見ているようだ。
ボケとツッコミ。その絶妙なかけあいに腹をかかえて笑ってしまった。

とにかく早口の大阪弁。うだるような蒸し暑さ。
おっとりした田舎者が、はたしてこの先やって行けるだろうか。
ちょっと不安な初日だった。

翌日からは、引き継ぎ顧客へのあいさつまわりが始まった。

ある日のこと。
行き先は、天下茶屋近くの商店街。

地下鉄「動物園前駅」を降りて歩いていった。
歩道に座り込んだおっちゃんとおばちゃんが、昼間から酒飲んで盛り上がっている。
なんともいえぬ異様な雰囲気が漂っていた。

近くまで来てみると、おっちゃんは上半身はだか。
しかもその背中には鮮やかな模様が・・・

目を合わせないように、目を合わせないように。
体を堅くし、背中をまるめ、急いで横をすり抜ける。

「これが大阪か・・・」

毎朝会社に入るのが7時過ぎ。朝が弱い私には、本当にきつかった。
そして、毎日毎日ノルマ、ノルマで追い込まれた。
ノルマが達成できないと、終電がなくなるまでやらされることもしょっちゅうだった。

心機一転。心も体もへとへとだったが、今度は地道にがんばった。
その甲斐あってか、順調に顧客も増え、成績もそこそこよくなった。

1989年1月。
昭和から平成に。まさにバブル絶頂期。
この年の年末まで株価は一本調子で上がって行った。

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○大和証券の営業マン時代C 『ジレンマ』
(1989年 バブル絶頂期 会社と顧客の利益とは?)



当時の証券会社の主な収益源は、手数料収入。
営業マンの成績は、いかに顧客から手数料を稼ぐかで決まる。
そのため、株を買わせるとともに持ち株を売らせることも重要だ。

少しの利益で売らせ、また別の銘柄を買わせる。
要は資金をいかに回転させるかだ。
証券会社の利益と顧客の利益は相反する関係なのだ。

こんなやり方は絶対おかしいと思っていた。
「お客さんが儲かるにはどうしたらいいだろうか」といつも考えていた。
そのため私の顧客は比較的儲かっていたが、私の成績はなかなか上がらなかった。

バブル絶頂期。
どんな銘柄も異常な値上がりを続けていた。
ヘタに売り買いするより、ずっと持ち続けたひとが一番もうかったのではないだろうか。

1989年の年末。
大納会。
日経平均終値3万8915円。
「来年は5万円。そして数年後には10万円」
だれもが信じて疑わなかった。

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○大和証券の営業マン時代D 『バブル崩壊に学ぶ』
(1990年 バブル崩壊直後 誠心誠意顧客に尽くす)



1990年が明けた。
意気揚々の初出社。みんな目を輝かせていた。

しかし、なぜか初日の株価は下落から始まった。
その後も毎日ずるずると下がり続ける。
なぜこんなに下がるのか。原因はだれにもわからなかった。

1990年4月。日経平均は2万8千円。
なんと4ヶ月で1万円以上も下がってしまったのだ。

こうなるとすべての顧客が損失をこうむり、もうボロボロだった。
買う余力がある顧客なんてひとりもいない。
それでもノルマが減ることはなかった。

「この損どうしてくれるんだ!」クレームの電話がかかってくる。
お客なんて勝手なもんだ。
儲かっているうちはいいが、損をし出すと営業マンのせいにする。
その筋のひとに脅され、監禁されそうになったこともあった。

当時一番の顧客だったある会社の社長。信用取引で損が数億円に膨らんだ。
そのときから電話をしても一切出てくれなくなった。

「自分の判断でやってるんだからこっちには責任がない」と開きなおることもできず、すぐさま自宅に謝りに行った。
ところがいるはずなのに出てきてくれない。

次の日の夜。また訪問したが、今度も居留守。

毎晩続けて一週間。やっと出てきてくれたと思ったら、塩をまかれた。
それでもめげずに通い続ける。

二週間でようやく口をきいてもらえるようになった。
一か月で家の中に上がらせてもらえるまでになった。

「損したのは、あんたのせいじゃないとわかってるんやけどね」
やっとまともに話ができた。
その日は、社長の生い立ちや商売のことなど、初めて聞く話も多かった。

実は本業ではかなり利益が出ていたらしい。
バブル崩壊ですべてを失うことにならなかったのが救いだった。

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○大和証券の営業マン時代E 『信念をつらぬく』
(1991年 結婚を機に退職を決意 税理士になるぞ!)


支店には、同年代の営業マンが多かった。
はじめに三つ年上の先輩が結婚した。
するとどうだろう。
まるで伝染病のように次から次へと毎月1人ずつ。
結婚ラッシュが1年も続いた。

1990年。27歳の夏。
とうとう私も結婚することに。

結婚を機に、自分と家族の将来を真剣に考えるようになった。
こんな仕事を続けてていいのだろうか。
自分が本当にしたいことはなんだろう。
お客さまに喜んでもらえる仕事とはなんだろう。

毎日悩み続けた。
「よし、税理士になろう。学生の頃一度夢見た税理士になろう。がんばったらがんばっただけ、ありがとうと喜んでもらえる仕事をしよう」

退職を決意し辞表を出した。
1991年6月。28歳のことだった。

思えばみなバブルに酔って我を失い、金に踊らされた時代だった。

占いで、一度に何十億円もの株を売買する、料亭の女将がいた。
その後彼女は、預金証書の偽造が発覚、信用金庫をひとつ潰してしまった。

最年少で支店長になり、「時代の風雲児」と週刊誌にもてはやされた証券マンがいた。
その後彼は、顧客の株券数十億円を横領、逮捕されてしまった。

ノルマに耐えきれず、顧客に無断で売買してしまう証券マンがいた。
その後彼は、顧客に訴えられ、法廷の証言台に立った。

=== 私の証券マン時代はバブルの真っただ中に始まり、バブル崩壊直後まで本当に厳しいものでした。
それでも周りの雑音に惑わされることなく、信念をつらぬくことができたと思います。
この貴重な経験があったからこそ、今の自分があるのだと確信しています。===

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